2011年2月26日土曜日

経営者の背中とは?

バラック小屋から本田技研工業(以下、ホンダ)を創業した「本田宗一郎」。今や「世界のホンダ」として大きく飛躍しました。しかし、その飛躍を支えた一人に「藤沢武夫」という人物がいます。今更ながら、今回はホンダの経営と経営者の魅力に触れてみます。(敬称を省かせて頂きます)

小さなエンジンの開発からスタートしたホンダ。その後、既製自転車の後輪脇に取り付ける「カブ号」を人気商品とし、拡大を図ります。

本田宗一郎は根っからの技術者であり、自ら設備や機械を欲しがらない。与えられた環境で技術に没頭する。そこで「金」を分担する藤沢武夫は、当時、資本金6,000万円の企業として15億円の投資をするなど、積極的な経営を展開しました。折りしもその当時(昭和28年・29年)、ニッポンは大不況に突入。

ホンダは倒産の危機に瀕します。しかし、藤沢武夫はその経営手腕によって、この危機を脱します。その後の幾度と訪れる危機をも乗り越えます。

海外展開に於いても、強気な姿勢を見せます。本格的な初の海外進出先として、発展途上で地の利を活かせる無難な東南アジアへの進出ではなく、また、小型オートバイの普及が進み、マーケットとして魅力的な欧州でもない。藤沢武夫が視野に入れたのはアメリカです。

当時のアメリカではオートバイと言えば「革ジャンの荒くれ者」のイメージがあり、四輪も成熟していました。それでも、経済や文化に於いて世界的にも中心的な存在であり、ここへの進出をまず第一に捕らえます。そう藤沢武夫は経営判断を下しました。失敗すれば会社の発展は今後有り得ないとの考えを元に。

創業時に、数十人の従業人を前にミカン箱の上に立つ本田宗一郎は「世界のホンダになるんだ!」と呼び掛けました。藤沢武夫の経営判断は経営理念と整合していました。結果的に成功を収めます。

最高技術責任者(CTO)としての本田宗一郎と最高経営責任者(CEO)としての藤沢武夫は二人三脚でホンダを拡大してゆきました。単なる金儲けではなく、「生命に関わる仕事」を通して、社会的責任としての「作って喜び、売って喜び、買って喜ぶ三点主義」を目的に愚直に事業を展開しました。

壮絶な二人の人生には圧巻されます。人間的な魅力に加え、事業を行う貪欲さ、壮大な夢、粋な考え、人(顧客・従業員・取引先等)を想う気持ちに引き付けられます。詳しくは藤沢武夫著書の「経営に終わりはない」「松明は自分の手で」に。まだお読みになっていない方は是非!「よーし、頑張ろう!」と言う気にさせてくれますよ。

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